麻雀の基本はツモだ。
誰が決めたのか知らないけど、広く構えてツモ和了りするのが良いらしい。 必勝パターンというのは、他の三人がオリて(三人をオロシて)ツモる体勢に入った状態のことだ、だ、だ(強い断定を表現する「だ」)。
まぁ、間違いなさそうだけど、何かしら釈然としないモノを感じたのは何故だろう。
ツモなんて偶然じゃん、それより他人から狙う方がナンカ、必殺!って感じがするゼ。

その昔、『ひっかけ麻雀』とか『迷彩を施す』とか『捨牌を演出する』とかが流行った時代がある。 昭和四十五年以降、二十年間くらいはこんな時代だった。 そんな中で麻雀を覚えたアタキと同年代の人間の多くは、テクニックというよりも、ひとつのカタチとして、迷彩を作る楽しさを知っている。 ある時期、これこそが唯一の戦略めいたモノであるような気もしてた。
なのに、いつのまにか『棒聴、即リー、全ツッパ』だとか、『揺れない心』だとかが台頭してきて、迷彩なんかに凝るよりは、真直ぐテンパイを目指してウケを広くして立直した方が実際の所(勝敗面では)効率が良いと言われだして、そして本当にそのとおりなので、少なくとも巷の『赤アリ、一発アリ、裏ドラアリ』のクラブに、迷彩作りの名人で勝ち組、という打ち手はいないだろう。
イヤ、別にそれが困ったとか、オカシイとか言うんじゃないけど、さ。

昔と比べて全体のレベルが上がった。
たぶん、そうだ。うん、間違いないだろう。 だけど、そのことと、迷彩の価値が低くなったこととは、あまり関係ないだろう。
イヤ、もしかして迷彩なんて、元々、麻雀のセオリーからすると非効率なことこの上ない技術に過ぎなくって、皆のレベルが上がったことで、その事実(迷彩なんて非効率っていう事実)を誰もが知ってしまったのかもしれない。 うん、そんな気もしてきた。
だけどそれだけじゃない筈。
赤ドラや一発があるのが普通になった、ってーのとも関係してるんじゃないか。
そうそう、こんなの無かったんだ。 アタキが麻雀ゴコロ付いた頃でさえ、赤がないフリー雀荘なんて、そのへんにゴロゴロしてた。第一打に赤ドラを捨てて、不思議がる三人に向かって、「アタキゃ、赤で麻雀ばしまっせん(=私の麻雀は赤ドラに左右されることはありません)」って言ったオッサンがいたんだ実際に。 たぶん、このオッサン、今でも生きてたらこんなことは言えない筈だ。
赤や一発は点数以外の御祝儀のやり取りとも相まって役の価値を相対的に低くしてきたわけだが、そうなると重宝されるのは、勿論『スピード』に他ならない。
誰よりも早く聴牌して、広いウケで立直して、ツモ和了りを狙うのが一番。うん、納得。
『好牌先打』なんてチャンチャラおかしくって、やってられない、…本当か?

アタキは基本的に赤やワレメなどのインフレは大好きな人間なのだけど、『ツモ』は嫌いだ。 とても嫌いだ。
自分がツモれないから嫌いだ(嫌いだけど、憧れてもいるというアンビバレント)。
だいたい、『門前清自摸』なんて役があるからイケナイ。 なんで『自摸』という役があるのに、『栄和(ロン)』という役が無いんだ。 絶対にヘンだ。
最初からそこにある牌を山から持ってくるだけで一飜なんて、理不尽な話だ。 そんなことよりも、他人の手牌からアガリ牌が出ることの方がずっと困難なことで、相手だってこっちには振り込みたくはないことが多い筈だから、そんな思惑を超えて尚『栄和(ロン)』するってーのには、そこそこの技術を伴って然るべき事態だと思う。

そう、もうこれからは『自摸』なんてヤメよう。
二十一世紀は『栄和(ロン)』の時代だ。
「栄和、断ヤオ、平和でザンク!」「栄和のみ、1000点!」ってなもんだ。
「ツモのみ…」「アンタ、役が無いのにアガレないよ」素敵だろう。
そうそう、ゴミなんて和了りが無くなるっていう利点だってあるゾ。 何で、三十符三飜で1100点も貰えるのか、絶対オカシイだろ!(だけど四十符の1500点(400/700)は無くならないのは目をツブろう)。

個人的な好みで言うと『栄和(ロン)』が一飜なんて安すぎるような気がする。 三飜、なんてーのはどうだろう。
こうなれば、もう迷彩の嵐が吹き荒れるに違いない。

一萬 白 赤三萬 三萬 北 八索 九索 九筒 四萬 四筒 五萬横

こんな捨て牌で、 二萬が当たり牌だったりという、 まるで全員の捨て牌は小島武夫になってしまう世界は素敵だろう、きっと(イヤ、これは失敗例。 五萬を引っぱり過ぎダアな)。

ツモってしまうと安くなるし、それがイヤなら手を回すことになるわけだから、なるべく自分でツモれそうにない待ちにするのが新しいセオリーだ。
そうなると早い立直で、七対子っぽい捨て牌なら、二枚切れてる牌よりも、生牌の方が安全牌ということになる。 だって、たくさん山に眠っていそうな牌では、なかなか立直しづらいわけで、だからと言って必ずしも安全牌かと言うとそうでもなく、立直者は他家がそう考えて生牌を振り込んでくるのを期待しての立直かもしれないわけで、ほうら、やっぱ、麻雀は奥が深い。
こんな世界では『漢(オトコ)』がどうこうとか言ってられない。
勝者とは、いかに相手をうまく陥れることができたか、の結果だ。雀鬼、困った。
三面張なんかではなかなか立直に行きにくい。聴牌が看破される確率がかなり高いので、双ポン待ちになるか、嵌張になるまで廻して、悪い待ちになったらリーチだ!
ん、なんかオカシイけど気にせん、気にせん。

現行ルールの『門前清自摸』以外にも『自摸』が有利に働く役がある。
それは『四暗刻』と『三暗刻』だ。ツモった結果として暗刻がデキることが多いので、この麻雀本来の持ち味とはチョット違った価値観の役、ということになる。
別にこんな役があっても、それはそれで面白いとは思う(何でも合理的が一番ってワケじゃない)。 だけど、どうせなら『暗刻』に対抗して『明刻』の役も設けたらどうだろう。
『三明刻』や『四明刻』という役だ。
ただでさえ、全員が牌を絞り気味に手を進める麻雀において、三つも四つもポンするっていうのには、かなりな技術を要すること、間違いない。
四つポンしての裸単騎待ち、これは勿論、『四明刻単騎』という役満の聴牌形だ。 聴牌ってからアガリまでの困難さは、現行ルールの『四暗刻単騎』よりも何倍も大変なので、非常に価値のある役満だ。

『栄和(ロン)』という役がもたらす効果はいくつかあるが、最たるものは『推牌の楽しさ』であることは他者の弁を待つまでもない。
本当の看破なんてデキルわけないとは思うけど、『棒聴・即リー』ばかりじゃ味わうことのできない、麻雀の楽しみの一つが復活できたらイイのに。