$1. It's a sin to tell a lie

 初めて見る顔だった。
 男は一杯目のマティーニを手首の返しだけで飲み干した後は何も注文してこない。
「こんなところで、伝説の麻雀打ち、ウルフにお目にかかれるとはな」
 カウンターの中の私に聞こえるだけの小さな、しかしはっきりとした声に反応した私を眩し気に見返す。 私の中に一瞬蘇るものがあったが、それを隠しておけるだけの器用さをこの数年で私は身につけてしまった。
 私はバーテンなのだ。 シェイクしたカクテルをグラスに注ぐ瞬間にだけ、自分の神経を研ぎすますことのできる人間になっている。
「似合わないんだよ、あんた。 雀竜王戦でのラス前の一索ツモを憶えてるんだぜ、俺は」
 雀竜王戦決勝卓での振り聴チャンタ、三倍満ツモで奇跡の逆転。
 忘れようがない。 私の競技プロとしての絶頂期で、そして公式戦としては最後の半荘。 忘れたくてもどうしようもない記憶。 この男の知らないことを忘れたくて私は麻雀をやめたのだ。
 私が相手にしないことを理解したのか、男はそれ以上、私に話しかけてくる事はなかった。 店に流れているのは古いジャズナンバー。 有線だが今月の選曲は抜けており、無口な客がいても不自然でない雰囲気を漂わせている。
 二十分程した帰り際、男がつぶやいた。
「長嶺秀次の女房がいなくなっちまってよ。 行方不明ってやつだが、死んだって噂もあってね」
 長嶺不二子。 私が知っているのは旧姓の高木不二子だ。 そして、不二子のことは何度も忘れようとした。 同じように、不二子の婚約者、長嶺のことも忘れたくてこの街に流れ着いた。 忘れることで何かが許されるとでも言うのか。
 曲は「嘘は罪」。
 私が犯した罪は、嘘ほどには軽くはない。


 次の晩も男はやって来た。
「俺は、あんたにもう一度、打ってもらいたくてよ。 あんただって、自分のいる場所がここでいいなんて思ってはいないだろう」
 麻雀卓の前こそが自分のいるべき場所だ、と感じることができたのは、競技プロを目指した頃のほんの一時期だけだ。 その時期が過ぎると麻雀を打っている最中よりも、他人の闘牌の解説をしたり、著作の戦術書を推敲している時の方が何倍も神経を使ったし、それこそがプロの仕事なんだと思っていた。
「あんたも長嶺秀次も、何年も適当に麻雀タレントを演じていたさ。 だけどあの頃、そう最後の雀竜王戦までの一年間、あんた達は本当の麻雀打ちだった。 あんた達の一打一打にはみんな圧倒されたんだ。 ツキのやり取りだとかデジタルだとか牌の流れだとか、それまで実しやかに言われていた麻雀理論のすべてを否定した所であんたは闘っていた。 長嶺秀次もな」
 私がプロデビューしたのは長嶺より一年後で、当時の麻雀界は前年度にデビューした新人、長嶺秀次の話題で持ち切りだった。 新人の登竜門、竹鳳凰杯で優勝した後にエントリーされた各界著名人が揃う無双カップでの役満ラッシュ。 ただの優勝でなく、素人受けする役満をデジタル放送が始まったばかりの生番組で達成したことが、多くのメディアやサポーターの注目を集めた。 麻雀界ではすっかり忘れられていた「魅せる麻雀」というコピーが、一般週刊誌やスポーツ新聞を賑わして、その騒動の中心には長嶺がいた。

 麻雀界に突然ふいた追い風に乗って多くのイベントが開催され、そして多くの若者が各プロ団体の門を叩いた。
 私もその一人で、新人戦優勝時のインタビューでの目標とするプロはとの問いに臆面もなく同世代の長嶺の名を上げた。 長嶺は既にスターではあったが、新人が目標とすると公言するにはいささか問題が無かったとは言えない。 私を疎ましく思う長老達がいることは知っていたが、そのおかげで長嶺と親交を深めることができたのも事実だ。
「長嶺秀次が出てきた頃だってたいした打ち手じゃなかった。 世間じゃちやほやされてたけど、俺なんかにしたらただの強い打ち手の一人に過ぎなかった。 あんただってそう、ウルフなんて呼ばれてたけど、あの頃のあんたや長嶺秀次クラスの打ち手は巷にだってごろごろしてた。 ああ、そこいらじゅうにいたよ、出たばかりのあんたクラスの打ち手はな」
 長嶺の翌年度の新人王の私はウルフと呼ばれ、長嶺のライバルと目された何人かの若手プロの中でも最も早くに注目を浴びた。 マスメディアはスターの対抗馬を作ることで、麻雀界のドラマを盛り上げようと目論み、そしてそれは成功した。 私と長嶺の戦績は当時の若手プロの中にあってはいくらか抜きん出ていたが、所詮は麻雀というゲームの中での成績であって、負ける事だって頻繁に起こった。 これはゲームの性質上、仕方のないことなのだが、一旦スターダムにのし上がった人間が負けてしまうという事実を回りの誰も許してはくれない。
 私はせいいっぱい勝つ為の努力を試みた。 長嶺もたぶんそうだが、私達はこれまでのプロが誰も試みなかったと思えるほどの努力をした。 しかし、戦績はどんなに頑張っても年間でのトップ率が35%を超えることはなかった。 そしてその事実を当然の事実として認めた頃から、私の情熱は麻雀を打つことよりも、その周辺の作業に傾いていった。 麻雀教室を開いたり戦術書をまとめることにも、自分の技量が活かせることが判ったのだ。
「あんたも長嶺秀次も何年間か死んでたよな。 間違いなく死んでた」
 男が死んでたと表現している時期の私にその認識は薄く、麻雀を打つだけの頃よりも格段に収入が増え、文化人面して事件のコメンテーターとしてテレビに出演したり、面識のない芸能人カップルの披露宴にも喚ばれるようになった。 長嶺も同じように多くの著作をものにし、麻雀を通して世相や社会を斬る彼独特の辛口のコメントは、政治評論家やお笑いタレントや立志伝中の起業家達に飽きていた多くの大衆の支持を集めた。
 長嶺と私はプロ団体を脱退し、同じタレント事務所に所属した。 団体を離れてからも、ある程度の規模の大会には必ずどちらかがゲストとして迎えられた。 私達は、過去三十年、誰も成功しえなかった麻雀タレントとして確かな成功を味わっていた。
 しかし、今の私をウルフだと判る人間はほとんどいやしない。 私はもう麻雀とは縁を切ったのだ。


 男が出した名刺には、医療コンサルタントの肩書きと、経営修士ドクターという私には理解できない資格が書いてあった。
 武田、という性の下の名前の部分は読めないが興味もない。
「もう一度、囲んでみないか」
 武田の狙いは明らかだ。 私を卓に付けようとしている。

「お客さん、今晩も口説きに来てるの」
 ママの奈津実が、足をふらつかせてカウンターに寄って、私に水割りの合図。 ボックス席の常連が帰ったので、今日はもうレジを閉めても充分なのだ。
「うちのバーテンを口説いて何させるつもりか知りませんけど、この人はこうしてお酒を出すだけの人生を選んでしまったんですよ」
 奈津実の、この人、という言い方には棘があり、その棘は私に向けられたものだ。
「あら、お医者さまでしたの」
 放り出してあった名刺を目にして奈津実はおもねるような眼差しを武田に向けた。 上客の候補だと、奈津実の中の経営者としての気持ちが動いている。
「いや、医者を食い物にすることはあっても、俺は患者を食い物にはしないよ」
 屈折した物言いが武田の本質なのかもしれない。 私の正体を知って、まだ忘れていないというのは、どうしようもないほどの麻雀愛好家のはずだが、この落ちぶれた私を再び卓に付けることで、武田自身にはどのようなメリットがあるのか。 麻雀の結果なんて誰にも予測できない。 普通の神経なら、卓が立てば自分で囲むのが麻雀打ちだ。
 そして武田がそこそこの打ち手であることは初めてグラスを差し出した時に目にした、右手中指の先の内側が白く変色していることですぐにそうと知れた。 麻雀蛸が擦り切れてしまった形跡。
「ママ、このあたりで囲める所、ないかな、ママの顔で。 レートはかまわないけど、楽しめる所がいいね」
「あら、うちのバーテン、強くはないけど打つんですのよ。 わたしとサンマってどう」
 俺は、と言いかけて、奈津実がきつい目をした。 奈津実は武田を店の上客とするよりも、麻雀で食うことを選んだようだ。 麻雀を忘れた私が、奈津実がセットする卓に付くのは、それも従業員の勤めだと割り切っているからだ。 そして、それは麻雀なんてものじゃない。 少なくとも長嶺と凌ぎを削ったあの時期の私が相対していた麻雀とは、まったく別の種類の遊びだ。


 麻雀で男を食う。 食いつくす。 奈津実の麻雀は、狙った男の精を搾り取るような貪欲さを持っている。
 巷の雀ゴロならば獲物の息の根を止めることはしないのが普通だが、奈津実に寄ってくる獲物は自分が標的にされていることに気付いた時にはもうけっして奈津実の毒牙から逃れることはできない。 何人もの男達が奈津実の女に魅かれ、そして奈津実の体に溺れ、奈津実の手牌に財産を吸い取られている。 クラブの売り上げを麻雀での稼ぎが凌いでいる期間もあり、それは私が奈津実の相方となってからは顕著だ。

「まぁ、ドクター、お強いんですのね」
 武田をドクターと呼ぶのは不自然じゃない。 博士号を持っている。
 奈津実のマンションなのだが、ここで実際に生活しているのではない。 ベッドや一通りの調度品は揃ってはいるが麻雀専用の部屋。 獲物を狩る場所。
 しかし、武田は兎でも狐でもなかった。 奈津実クラスでは逆に食われてしまう可能性もあるほどの力量があるのは確かだ。 奈津実の余裕は半時もすると消え失せたが、武田が身に付けているものはただの麻雀の腕に過ぎず、それはセオリックな、ある意味ではおとなしいものなので、ここ一発という局面では修羅場をこなしてきた奈津実の方にいくらか分がある。 麻雀というゲームに運やツキは存在しないが、心の中をそれに支配されている打ち手の挙動には結果として現れてくる。 特にサンマなのだ。 のれた、そう思いこめた打ち手は勝ち続けるし、敵にのられたと感じた瞬間からは落ち目だ。
 武田は足の速い豹だったのかもしれないが、一旦、奈津実の牙にかかってからはあっけなかった。

 数時間で決着は見えた。
 一般の勤め人の月収を軽く超えた額を支払いながら武田は私に言った。
「麻雀はもうやらないのかと思ってたよ。 ああ、今のあんたがやってるのはあの頃の麻雀とは全然違う。 だがな、これだって麻雀さ。 あんたはやっぱり麻雀から離れるなんてできないのさ」
 いや、私は麻雀を忘れたのだ。 こんなのは麻雀じゃない。
「自分をごまかすんじゃない。 いいか、俺はあんたをずっと見てきた。 ずっとウルフの闘牌を憧れをもって見てきた人間なんだ。 あんたの腕は錆びついちまったかもしれないけれど、あんた自身がやってるのは麻雀以外の何でもないんだ。 あんたは麻雀を忘れるなんてできない」
 錆びついた。 私を挑発しているのか。
 奈津実がレコードをかけた。 店で流れていたのと同じ古いジャズ。 私は麻雀を忘れたはずではなかったか。
 嘘は罪。 私は自分に対しても罪を犯しているのか。